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小説版物念世界
原作者 リリティー様
著 めろん味のすいか

鉄男「森に明かりが見えて来てみれば夜店か」
男、一ノ木鉄男はぽつりとそう呟いた。
それから彼は、傍らの少女に向かって、言う。
鉄男「ちょっと見ていくか。凛、転ぶんじゃねーぞ」
凛達家族がやってきたのは、あやかし夜市という夜店だ。
店の者達は皆、面を付けており、どういうわけか影が存在しない。
ここで物を買うには、彼らに気に入られる必要がある。
凛が店を見て回っていると、狐の面を付けた人物に声をかけられた。
狐面「いらっしゃい。お嬢ちゃんは人形、好きかな?」
どうやらそこは人形屋らしい。
凛「……お人形?」
狐面の問いに対し、凛は『好き』と答えた。
ふと視線を感じたので、そちらに目を向ける。
すると、奥にある人形が凛のことをじっと見ていた。
狐面「お嬢ちゃん。この子に気に入られたみたいだね」
凛「でも、うちお金持ってへんよ」
狐面の言葉に、凛は困った表情を浮かべる。
ちょうどそこへ。
鉄男「なんだ凛。こんな場所にいたのか」
凛の父である、鉄男がやってきた。
凛「あっ。おとーちゃん」
その姿を認めた凛は、安心したように顔を綻ばせる。
鉄男「人形が欲しいのか? 欲しいなら買ってやるぞ」
人形屋の前にいる娘を見て、鉄男は言う。
鉄男「女の子なら人形ぐらい持ってないとな」
そんな父母の様子を見て、一体何を思ったのか、ともかく狐面は言った。
狐面「優しいお父さんですね。安くしますよ」
鉄男「で、一体いくらなんだい?」
鉄男が尋ねると、狐面はあっさりと答えた。
狐面「20銭でかまいませんよ」
提示された値段に、鉄男が驚く。
鉄男「随分と安いな。こりゃー結構な品じゃねーのか?」
狐面「我々は儲けを考えて商売はしておりません。物の幸せが第一なのです」
狐面の返答に、鉄男が感心したように言う。
鉄男「へー変わった人だな。よし、買った」
凛「おとーちゃん。ありがとな」
凛は嬉しそうに父に向って、感謝の気持ちを口にした。
鉄男「こいつは重いからわしが持って帰るよ」
そんな娘に、鉄男はぶっきらぼうに言った。
鉄男「おかーちゃんの所に行ってくるから凛も早く来いよ」
最後にそれだけ言うと、鉄男はその場から去っていった。
そうして、鉄男の姿が完全に見えなくなった頃、狐面が凛に言った。
狐面「可愛がってあげるんだよ」

店を一通り見て回った後、凛は両親の姿を見つけたので、合流することにした。
やって来た凛に、鉄男が言う。
鉄男「凛の人形も買ったしおかーちゃんの手鏡も買ったしそろそろ帰るぞ」
帰りの道すがら、凛が鉄男に尋ねる。
凛「ねーねーおとーちゃんは何買ったん?」
鉄男「わしは花札を買った。花カルタとも呼ばれているやつだ。絵が独特で気に入ってな……」
凛「それってどんなん?」
鉄男の答えを聞き、凛が興味を持ったようだ。
鉄男「これだ。花鳥風月の世界が素晴らしい」
言いながら、鉄男が件の花札を取り出した。
凛「わ~綺麗。いいなーいいなー」
それを見た凛が、目を輝かせる。
鉄男「凛は遊び方を知らんだろ。それにこれは子供が遊ぶもんじゃねーぞ」
鉄男が戒めるように、言う。
その様子を見かねた母が、二人の会話に口を挟む。
千代「まぁまぁ。絵が綺麗やし凛ちゃんが興味持つんもわかるわ」
鉄男「それもそうか。絵だけ見る分なら大丈夫だな。貸してやろう」
千代の言葉に同意した鉄男は、思いの外、素直に引き下がった。
凛「おとーちゃんが遊ぶときちゃんと返すね」
花札を貸してもらい、凛は嬉しそうだ。
そんな彼女に、鉄男は言う。
鉄男「すぐに使わないし気の済むまで眺めてていいぞ」
それっきり、しばらく会話が途絶えたが、やがてまたも凛が口を開いた。
凛「ねーねー。お母ちゃんの買ってもらった手鏡見せてー?」
千代「もうすぐお家でしょ。帰ったらね」
凛「うん」
そんなやり取りがあってすぐのこと、三人はちょうど家に着いたのだった。

凛「今の……夢?」
夜中に自室の布団から起き出した凛の第一声がそれだった。
凛「家について寝ちゃったんかな?」
言いながら、瞼を擦る。
凛「おかーちゃんの手鏡見たかったなー」
そんなことを呟いていると。
凛「なん? 今の音……」
どこからか物音がした。
凛「もしかして盗っ人? おとーちゃんに早う知らせなきゃ」
そう思った凛は、両親の元へと急ぐのだった。

両親が眠る寝室までやって来た凛は、まず父を起こそうと考えたのだが、いびきをかいて深く寝入っているようで、起こすと機嫌が悪くなるだろうから、やめておいた。
代わりに、その傍らで寝ている母を起こすことにする。
千代「凛ちゃんどうしたん? 眠れないん?」
千代はひどく眠そうな様子で、凛に話しかける。
凛「下で物音がしたんよ。盗っ人かもしれへん」
そう伝えるも。
千代「きっとねずみさかいに」
母は凛の言葉に取り合ってはくれなかった。
凛「なんか胸騒ぎがするんよー」
尚も食い下がる凛に。
千代「気んせんさかいに。早う寝よし」
千代はそれだけ言うと、話を切り上げた。
凛(おかーちゃんも眠いんやな。この家の安全はうちが守る。一人で行こう……」
そう決意した凛は、そのまま寝室を出ていった。

階段を下り、一階までやって来たところで……。
凛「また聞こえた。気になるし行ってみよう」
そうして、入ったのは掛け軸のある部屋だった。
凛「……近くで鳴っている」
とりあえず、音の出所を探すことにする。
すると。
凛「これ、おかーちゃんの手鏡……。音はここから聞こえる」
どうやら音は、その手鏡から出ているらしいことに気が付いた。
思わず手に取り、鏡面を見てみる。
凛「この鏡、真っ黒。なんでなんも映らへんの?」
不思議に思った凛が首を捻っていると。
鏡の中の凛「ちゃんと映るよ」
鏡に映った凛がそう答えた。
凛「あっ!! 本当だ」
鏡の中の凛「ちょっと忙しくてすぐに鏡に出られなかったの」
凛「鏡ってそう言うもんなん?」
鏡の中の凛の言葉に、またも凛が首を捻る。
そんな凛に、鏡の中の彼女は言う。
鏡の中の凛「知らないの? 鏡の中にはそっちと同じ反対になった世界があって。同じように生活しているのよ」
凛「そうなん? 知らんかったー」
目から鱗である。
一つ、利口になった気がする凛だった。
鏡の中の彼女は言葉を続ける。
鏡の中の凛「音を出して誰かに気がついて欲しかったの。今こっちの世界が大変だから助けて欲しい」
凛「鏡の世界?」
話を聞き、怪訝そうな表情を浮かべる凛だった。
そんな彼女に、鏡の中の凛は懇願する。
鏡の中の凛「そうよ。頼めるのはあなただけ。助けて!」
頼まれた凛は。
凛「もう一人のうちが困ってるなら助けるよー。どうすればいいん?」
二つ返事で引き受けた。
鏡の中の凛「二階に大きな鏡があるでしょ? そこからこっちに来て。世界を繋いでおいたから鏡に迷わず飛び込んでね」
凛「おかーちゃんの鏡台ね。すぐに行く」
鏡の中の自分の説明から受けた後、凛は急ぎ目的の場所へと向かおうとし。
凛「手鏡も持っていこう」
台の上に置いてあった手鏡へと手を伸ばすのだった。

二階にある母の部屋へとやって来た凛は、早速鏡台の前へと立つ。
凛「よしっ。鏡の中に入ってみよう」
そうして、鏡面へと飛び込んだ。
するとそこには。
鏡の中の凛「来てくれてありがとう」
鏡の中の彼女がいた。
凛「鏡の中ってこないな風になっとったんやね」
凛が興味深そうに言う。
凛「鏡の中は畳が赤っぽいんやなー」
そんなことを言う凛に、鏡の中の彼女が尋ねる。
鏡の中の凛「赤は嫌い?」
すると、凛は笑いながら答えた。
凛「んーん。嫌いやないよ。赤は好きな色」
と、そこで、凛が何かに気付いた。
凛「あれ? うちと着物違うん?」
聞かれた彼女は、穏やかに答える。
鏡の中の凛「私はこの柄が好きだからこっちを着ているの。私も赤が好きだから」
凛「そうなんかー。おしゃれは大事やね」
納得した様子で、そんなことを言う凛だった。
しかしどうやら、鏡の中の凛には今、凛本人程の余裕はないらしい。
鏡の中の凛「そんなことよりこの世界が変になちゃったのよ」
真剣な顔で、鏡の中の凛は言葉を継ぐ。
鏡の中の凛「この異変を放っておくと鏡が映らなくなって大変な事になっちゃうんだよ」
凛「それは大変。鏡が使えんと困るよ」
事態の深刻さはどうやら、凛にも伝わったらしい。
いつの間にか、彼女は表情を引き締めていた。
そんな凛の様子を見て、鏡の中の彼女はいくらか安心したようだった。
表情にも心なし、余裕が戻っているようである。
鏡の中の凛「そうでしょ。だから助けて」
凛「うちは何をすればいいん?」
凛が聞くと、鏡の中の彼女はこう答えた。
鏡の中の凛「この家に住み着いた化け物をやっつけてほしいの」
凛「化け物退治? 初めてやけど頑張るよー」
どうやらやる気は充分のようだ。
こうして、もう1人の自分と共に、化け物を退治する為に、鏡の世界を探検することになった凛だった。

まず二人がやって来たのは両親の寝室だった。
しかし、両親の姿はどこにも見当たらない。
凛「おとーちゃんとおかーちゃんはなんでいないん?」
凛が目に涙を浮かべながら尋ねると、もう一人の彼女はこう答えた。
鏡「化け物を退治すれば戻ってくるよ」
それを聞き、凛はぽつりと呟いた。
凛「おとーちゃん。おかーちゃん。待っててね」
こうして、決意を新たに寝室を後にする凛達だったが、ふと凛が何かに気付いたように、足を止める。
凛「あっ。この絵、着物の女の人が描かれてたんよ」
元の世界との差違、それはやはり凛にとって、無視するには難しいものだったようである。
凛「どこいったんかな」
飾られている浮世絵を見ながら、首を傾げる凛に対し、もう一人の彼女が言う。
鏡の中の凛「その女の人も化け物になっちゃってるかもね」
凛「怖い事言わんといて……」
思わず想像してしまい、顔を青くする凛だった。

両親の寝室を出た後、次に二人がやって来たのは凛の部屋だった。
そこでは、何かが歩き回っていた。
その何かは、凛の姿を認めると、こちらに近付いてきて、言った。
日本人形「よろしくね。凛ちゃん」
それは凛が今日、夜店で父に勝って貰った日本人形だった。
凛「あれ? お人形が動いとる。鏡の中は人形が動くんやね」
凛が感心した風に呟く。
鏡の中の凛「こんなの連れてきてないよ……」
もう一人の凛も、驚いているようだ。
日本人形「ふふっ勝手に来ちゃった。この世界の化け物の事知ってるよ」
まるで、悪びれもしない様子の日本人形だった。
そのまま、凛のすぐ側までやって来ると、日本人形は凛だけに聞こえるように、小声で言った。
日本人形「凛ちゃんにならこっそり教えてあげるよ」
そうして、色々と教えて貰った凛は日本人形に礼を言った。
凛「お人形さんありがとなー」
その後しばらくの間、探索をしていた凛達だったが、どうやらここには、見るべきものはないと判断したのだろう。
やがて部屋から出ていくのだった。

二階の探索を一通り終えた凛達が、一階へと下りようとした時のことだった。
凛「あっ。なんかおる」
凛が何かに気付き、足を止める。
ちょうど目を向けた先の階下では、着物を着た女性らしき人物がいた。
しかし、すぐさま階段脇へと姿を消してしまう。
凛「今のが化け物なん?」
不安そうな声で凛が尋ねる。
すると。
鏡の中の凛「そうよ。そのまま進むのは危ないわ」
もう一人の彼女が、肯定の意を示す返答をした後で、凛にそう忠告する。
鏡の中の凛「あの化け物。目がないからこっちに気がついてないみたい」
もう一人の凛が言う。
どうやら彼女は、化け物の様子をよく観察していたらしい。
目がないということは、音で周囲の状況を探っているはず。
だったら、あの化け物は音に敏感な可能性が高い。
そう考えた凛達は、階上からものを転がし、その音で化け物の注意を引いてみることにした。
早速、部屋の一つから手頃なものを見つけた凛は、それを階下へと放った。
ゴロンゴロン。
すると。
凛「よしっ逃げてった。これで下に行けるな」
凛が嬉しそうに言う。
そうして、そのまま二人は階段を下りていった。

一階へと下りてきた凛は、探索の途中で急に用を足したくなった為、便所に入ることにした。
しかし汲み取り式の、その便器の中からはなぜか、うめき声がする。
危険を感じた凛は一旦、その場から離れようかとも思ったのだが、ちょうど手元には探索で見つけた一品がある。
凛「何かが中におるからぶつけてみよう」
鏡の中の凛「それが当たればやっけられるかもね」
凛の言葉に、側にいたもう一人の彼女も乗り気なようだった。
そうして便器の中に向かって、それを放り込んでみた。
すると。
凛「なんか鈍い音がしたね」
????「アゥアーゥ」
凛「なん? 今の声」
凛が不思議に思い、首を捻っていると…。
凛「わっ!!」
突然、便器の中から白い化け物が現れた!
しかし、その化け物はすぐに消えてしまった。
凛「あーびっくりした」
鏡の中の凛「今の化け物なにか落としていったよ」
驚きからなかなか回復できない凛をよそに、もう一人の彼女が言う。
凛「悲しい顔しとったね。可哀相な事したかも」
しばらくし、落ち着きを取り戻した凛は、静かにそんなことを口にした。
そうして、化け物が落としていったものを拾い上げる。
凛「これ、うちのお手玉。あの化け物がもっとったん?」
鏡の中の凛「そうみたいね。かなり臭うけど持っていくの?」
もう一人の凛に聞かれ、凛は小さな声ながらもはっきりとこう答えた。
凛「大事なものやし……捨てられへんよ」
鏡の中の凛「そう……何かに使えるかもね」
そう言う、鏡の中の凛の表情からは、その気持ちを窺い知ることはできそうになかった。

次に二人がやって来たのは、元の世界では手鏡が置いてあった、あの掛け軸の部屋だった。
部屋を調べている途中で凛は、奥のふすまから何か、嫌な気配がしていることに気がついた。
不審に思った彼女は、ふすまを開けてみることにした。
途端、さらに気配が強くなった気がした。
凛「この中、なんかおるよ」
凛は表情を引き締めると、今持っているものの中から、何か役に立ちそうなものがないか、探し始める。
すると、ちょうど先程手に入れたお手玉があった。
凛「お手玉ぶつけてみよ」
凛がふすまの中にお手玉を投げ込むと、中から悪臭が広がった。
凛「嫌な気配消えたみたい。でも、お手玉はもう使えんね」
そう言い、凛はふすまを閉める。
鏡の中の凛「大事にしていたお手玉。私の為にごめんね」
凛「いいんよー。気にしないで」
申し訳なさそうに言う、もう一人の自分に対し、凛は努めて明るく言ってみせる。
凛「化け物に襲われとったかもしれんし無事で良かったわー」
鏡の中の凛「……」
朗らかに笑う凛の様子を見て、もう一人の彼女は呆気に取られているようだった。
やがて、笑顔になった彼女は、凛にこんな提案をするのだった。
鏡の中の凛「家の中の化け物は居なくなったみたいだから外に出てみない?」

もう一人の凛の言葉に同意し、外へと出てみると、なんと様子がすっかり変わっていた。
凛「空が真っ赤……。不気味やね。何かあったんかな?」
不安そうに言う凛に対し…。
鏡の中の凛「外に出てもこの世界の事……まだ気がつかないんだ?」
そう静かに、だが確かに、鏡の中の自分は呟いた。
凛「ん?」
凛自身は、突然そんなことを言われても、なんのことだかまるでわからない。
そんな彼女に、鏡の中の凛は言った。
鏡の中の凛「鏡の中の世界なんて本当は無いのよ」
その言葉は、この探検の前提を覆す、衝撃の真実だった。
もう一人の凛は、尚も話を続ける。
鏡の中の凛「全部私の作った偽の世界、化け物も全部ね」
凛「……」
凛は『信じられない』といった様相で、もう一人の自分を見つめている。
この時、彼女が感じていた驚きは、とても大きいものだった。
その表情を見て、鏡の中の凛が呆れたように言う。
鏡の中の凛「なにポカーンとしてるの。あなたは騙されてただけ」
凛「どうして? どうして騙したん?」
目に涙を浮かべながら、もう一人の自分に問う。
認められなくて、認めたくなかった。
凛は今、そんな気持ちで一杯になっていた。
動揺している様子の彼女を、どこか楽しそうに見つめながら、もう一人の凛は答える。
鏡の中の凛「私があなたになる為……かな。同じ世界に同じ人間が二人居たら変でしょ?」
そう言った後、鏡の中の彼女は言葉の続きを、これから凛にとっての現実となる、悪夢の内容を口にした。
鏡の中の凛「この世界であなたと私は入れ替わる」
凛「なんでそんな事するん? 入れ替わってもうちと同じには、なれんよ」
凛がそう尋ねるも、もう一人の彼女は質問に答えずに続ける。
鏡の中の凛「私の用意した化け物にあなたを始末してもらう予定だったけど」
言いながら、彼女は凛に対し、にっこりと無邪気に笑いかける。
鏡の中の凛「良い子だったから殺さないでおいてあげる。……かわいそうだし。それに」
そこまで言い終えた時、もう一人の凛の表情が若干、変わったように凛には感じられた。
今まで浮かべていた楽しそうな笑顔から、優しい微笑みへと。
鏡の中の凛「自分の大事な物を犠牲にしてでも私の事も助けようとしてくれてたしね」
そうして、彼女は今度こそ答える。
先程、凛に聞かれた質問の、その答えを。
鏡の中の凛「あなたと入れ替わる目的はね。私を捨てた人間への復讐」
その言葉の後、僅かに間があった。
見ると、もう一人の凛はいつの間にか、目尻に涙を溜めていた。
鏡の中の凛「私は今日、あなたのお母さんに買われた手鏡なの」
そう。
それこそが今まで凛が、鏡の中にいるもう一人の自分だと思っていた存在の、正体だった。
鏡の中の凛「自分勝手な理由で私を捨てた奴をどうしても許せないのよ」
彼女は確かにそう言った。
とても強い気持ち、感情を彼女は抱えていた。
怒りや憎しみといった、負の感情を。
凛「うちはどうなるん?」
目に涙を浮かべ、心の中の不安を隠さずに、凛が尋ねる。
すると。
鏡の中の凛「泣かないで。少しの間だけだから……」
もう一人の凛は、まるで諭すかのようにそう言った。
この時の彼女には意外なことに、悪意らしきものがないように、凛には感じられた。
鏡の中の凛「復讐が終わったら元に戻りに帰ってくるよ」
その言葉にも嘘はないように思えた。
鏡の中の凛「あの化け物退治できた凛ちゃんならこっちでもやっていけるよ」
その言葉に信頼以上の、確信がこめられていることくらいは、理解できた。
だからこそ、『彼女は安心して目的を果たしに行けるのだろう』と、そう凛は思った。
鏡の中の凛「みんな、あなたみたいな優しくて素直な人間だったらよかったのに」
その呟きには隠そうとしても隠しきれない程の、強く深い絶望と悲しみが滲んでいた。
鏡の中の凛「それじゃ……。いつになるかわからないけどこの世界で待っていてね」
別れ際に、それだけを言い残し、もう一人の凛は走り去っていってしまった。
凛「待って! うちはまだ許してへんよ」
凛の制止の呼びかけも空しく…。
しかし、ここで諦める凛ではなかった。
凛「まだ間に合う。追いかけなきゃ」

追跡は困難を極めた。
何しろ行く先々で、赤い手のようなものが進路上に現れたのだ。
行く手を阻む障害に、大分手を焼かされた凛だったが、それでももう一人の自分を追い続けた。
そうして相手がつい今し方、鏡台のある部屋へと入っていくのを見た。
凛もその後に続き、部屋の中へと駆け込む!
するとそこでは。
鏡の中の凛「どうして邪魔するのよ」
もう一人の凛が何者かと争っていた。
鏡の中の凛「あなたも人間を怨んでいるはずよ。どうして……」
『心底、理解できない』と言わんばかりに、彼女は目の前の相手に、『どうして』と口にする。
目元に涙を浮かべながら呟くその様子は、悲痛でさえあった。
それに対し、相手は強くはっきりとした敵対の意思を見せていた。
日本人形「お前の好きにはさせない」
そう。
もう一人の凛の前に立ち塞がっていたのは、なんとあの日本人形だった。
日本人形「何してるの。早く鏡の中へ」
凛の姿に気付いた日本人形は、急かすように声を投げる。
迷っている時間も余裕もない。
だったら、一か八か!
そう考えた凛は。
凛「お人形さん。ありがとなー。先に行くよ」
最後に自分を助けてくれた日本人形に礼を言い、そのまま鏡面へと飛び込んだ。

鏡を抜け、元の世界へと戻ってきた凛が振り向いた時、鏡面に自分を追ってくるもう一人の凛の姿を見た。
そこで凛は、手鏡を使い、姿見と合わせ鏡にしようと試みる。
凛「合わせ鏡にすれば向こうから出てこられないはず」
果たして、凛のその判断は正解か否か?
手鏡を姿見に合わせた。
すると、鏡の中の凛は手鏡の中に吸い込まれるように消えていった。
姿見から、凛が数歩後ずさる。
凛「お……終わったん? はぁ……」
思わず安堵の息を吐く凛だった。
鉄男「こんな夜中にドタドタ何してんだ」
ちょうどそこへ、鉄男がやって来ていた。
彼は呆れた様子で、凛を見ている。
千代「凛ちゃん。まだ寝てへん。どしたん?」
傍らには、若干心配そうな表情を浮かべている、千代の姿もあった。
凛は二人に言う。
凛「鏡の中のうちがな。うちと入れ替わろうとして逃げてきたんよー」
鉄男「はぁ? 何言ってるんだ?」
真剣な凛の言葉に、しかし鉄男は怪訝そうな顔をする。
まるで、『意味がわからない』と言わんばかりに。
千代「おとーちゃん。凛ちゃんは寝ぼけてるんよ」
千代までも、そんなことを言い出す始末だった。
鉄男「そうか夢の話か。ちゃんと布団で寝ないと風邪ひくぞ」
父の気遣いがこの時ばかりは、胸に痛かった。
凛「本当なんよー。信じて……」
願いの言葉にこめられた切実な思いは。
鉄男「いい加減にしないと怒るぞ」
千代「早よう自分の部屋で寝よし」
結局、両親には伝わらず、そのまま切り捨てられる。
そうして、彼らは部屋を出ていった…。

あの後、凛は自分の部屋へと戻ってきていた。
その目に、溢れんばかりの涙を溜めながら。
凛「……ぐすん。本当の事言っとるのに何で信じてくれんの……」
彼女の心の内は、理不尽な現実に対する、悲しさと悔しさで一杯だった。
ちょうどそんな時である。
日本人形「大人はみんな勝手なのよ。あたし、大人って大嫌い」
凛「お人形さん!」
一体どこから飛び出してきたのか、突然目の前に現れた日本人形に、驚く凛だった。
凛「よかった。戻ってこられたんやね」
そこでようやく、凛に笑顔が戻る。
心の底から安堵しているのだろう。
その表情は、とても嬉しそうだった。
そんな彼女に、日本人形は言う。
日本人形「凛ちゃんが無事であたしも嬉しいよ。これでお友達になれるから」
凛「うちを助けてくれたんやしもう友達よー」
そう言った後、凛の目元に再び涙が滲み始める。
凛「ほんまに怖かったわー」
それもそのはずだった。
特別、凛が臆病というわけではない。
むしろ恐怖したとしても、それは当然というものだろう。
何しろ、尋常ならざる体験をしたのだから。
それも、凛のような少女が、である。
凛「まだどきどきしてて眠れへんよー」
そんな凛に、日本人形は言った。
日本人形「気分が落ち着く場所連れていってあげるよ」
そのまま、照れ臭そうに視線を逸らしてから、言葉を続ける。
日本人形「お友達にしか教えない秘密の場所」
しかしそう誘われても、凛の表情は晴れなかった。
凛「おとーちゃんとおかーちゃん怒っとったし今日は外に出られへんよ」
日本人形「大丈夫だよ。ここから行けるから」
凛「わっ。扉ができた!」
なんと、日本人形が少し動いただけで、部屋の奥に扉が出現した!
その様子を目の当たりにした凛は、当然驚きを隠せずにいる。
日本人形「凛ちゃんが眠くなってもすぐに戻ってこられるよ」
凛「すごいなー。どんな場所なん?」
淡々とした日本人形の態度とは裏腹に、凛は段々興奮してきたようだった。
日本人形「行ってからのお楽しみ……」
感情が一切窺えない全くの無表情で、日本人形はただその一言だけを答えるのだった…。

扉を抜けると、その先に広がっていたのは。
凛「うわぁ。綺麗やねー」
日本人形「彼岸花畑。綺麗でしょ」
そう。
見渡す限りの一面に赤が咲き誇る、彼岸花畑だった。
凛「あの屋敷は?」
目の前の大きな屋敷を見ながら、凛が尋ねる。
日本人形「あたしが生まれた場所。入ってみる? きっと気にいるよ」
凛「うん」
日本人形の言葉に、凛が頷く。
日本人形「他の人形達とも仲良くしてあげてね。最初は警戒しているけどみんな良い子達だから……」

凛達は早速、屋敷の中に入ってみることにする。
入り口付近にいたのは、複数体の人形達だった。
その内の一体が言う。
人形「人塊館へようこそ。この人は大丈夫なの?」
どうやらその問いは、凛に向けられたものではなかったらしい。
日本人形「凛ちゃんはとても良い子よ。それに勇気もある。みんな気に入ると思うわ」
そう。
答えたのは日本人形だった。
気恥ずかしそうに目を逸らしながら、小声で答えていた。

入り口にいた人形達から話を聞いた結果、わかったのはどうやらここは人塊館という名で、人形だけの館らしいということだった。
ふいに視線を感じた凛は、入り口奥の暗闇に向かい、目を凝らしてみる。
すると。
凛「すごい人形の数……」
そこには、なんと無数の人形が並んでいた。
驚いている様子の凛に、日本人形が説明する。
日本人形「それはいらない人形達。特別な子やお気に入りは部屋に飾ってるけどね」
その言葉に凛は一瞬、どこか違和感めいたものを覚えた気がした。
しかし、その正体がなんなのか、結局のところわからなかったので、ひとまず忘れることにする。
それは恐らく、今わからないことを、今考えても仕方がないと判断した結果なのだろう。

館の中を少し進むと、いくつかの部屋の入り口がある、廊下へと出た。
内一つの部屋に入ると、そこにはたくさんの人形達がいる。
しかし、その中にはたった一体だけ、所在なさげにぽつねんと、どこか寂しそうに佇んでいる人形がいた。
やけにその人形のことが気になった凛は、思いきって話しかけみることにする。
すると、人形は語り始めた。
ここでの自身の立場と、ささやかなその願望を。
人形「この部屋で仲間はずれにされているの。友達になって」
凛は人形に、『友達になる』と答えた。
人形「ありがとう。これあげるね」
すると、人形は何かを差し出してきた。
凛にはよくわからないものだったが、とりあえず受け取っておくことにする。
日本人形「これで凛ちゃんもこの館の人形達に受け入れてもらえるよ」
日本人形が言うなら、恐らくはそうなのだろう。
微笑む人形達に見送られ、凛達はその部屋を後にした。

長い廊下をようやく抜けたその先は、上へと続く階段のある場所だった。
正面には、倉庫らしき部屋への入り口も見える。
凛達は先に、倉庫の方へと入ってみることにした。
倉庫の中には人形が使うにしては、少し大きいものがいくつもあった。
それを不思議に思った凛だったが、今はそんなことより、この場所を探索したい気持ちの方が大きかった。
そこには、凛の興味を引くものがたくさんあったのだ。
一通り中を見て回り、満足した様子の凛は、今度はここにいる人形達に、声をかけて回ることにした。
倉庫にもやはり何体かの人形がいて、色々と話を聞かせてくれたのだが、その中には少し気になる話をする人形もいた。
その人形は言うのだった。
人形「こんな場所まで来て……。早く帰らないとあなたも人形にされちゃうよ?」
日本人形「変な事を言うと凛ちゃんが帰っちゃうでしょ……」
そう言った時の日本人形の表情が、いつものものとどこか、違っていたような気がした凛だった。
相手は人形のはずにもかかわらず…。
そして、次の瞬間だった。
凛「わっ。真っ暗になっちゃった」
突然、倉庫の明かりが消える。
次いで、激しい物音がした。
再び部屋に明かりが戻った時、床には先程の人形の残骸が転がっていた。
無残にも、バラバラの、変わり果てた姿で…。
凛「え? 何があったん?」
当然ながら、凛は混乱している。
日本人形「真っ暗になったときに転んじゃったみたいね」
凛とは裏腹の、まるで平然とした様子で日本人形が言った。
日本人形「人形は繊細で壊れやすいの。大事にしてね」
凛に対し、そう念を押すようにし、窘めることで、日本人形は言葉を締めるのだった。

倉庫を出た後、階段を上り、やって来た二階で凛達を迎えたのは、奥の方に飾られた色とりどりの人形達だった。
凛「ここは入り口と似とるね」
その光景を一目見た凛の感想が、それだった。
日本人形「こっちは入り口と違って人間に捨てられた子だけを集めて飾っているの」
またも、日本人形が説明してくれる。
日本人形「入り口の出来損ないと一緒にしたら可哀相だよ」
最後のその言葉には、なんとなく棘が含まれているように、凛には感じられた。

二階を歩いていると、すぐにまた長い廊下へと出る。
しばらく進むと、日本人形が話しかけてきた。
日本人形「ねぇ、凛ちゃん」
凛「ん?」
凛が反応し、足を止めると、人形は言いにくそうにしながらも、言葉を繋いだ。
日本人形「ここから先には危険な人形の部屋があるの」
凛「危険な人形? どんなん?」
日本人形「ほかの人形達と違って大きくて力も強くて暴れたりするの」
そこまで言った時、人形の表情が辛そうに曇ったように、凛には感じられた。
日本人形「今は閉じ込めてるから大丈夫なんだけどみんな怖がってるんだ」
凛「鏡の世界の化け物ならやっつけたしうちが何とかできんかな?」
怯える素振りすら見せずに、大それたことを口にする凛だった。
未だ件の『危険な人形』とやらに、対してさえもいないにかかわらず、だ。
どうやら鏡の世界での経験は、彼女にとって大きな糧となったらしい。
日本人形「あれよりずっと恐ろしいよ。でもやっつけてくれたら嬉しい……」
凛「お人形さんうちの事助けてくれたし今度はうちが助けるよ」
不安そうにしている日本人形に、凛は決然と断言するのだった。

奥へ奥へと進んでいくと、床に大きな穴が開いている廊下に出た。
穴はまるで亀裂のようであり、そのせいでここから先へは進めそうになかった。
廊下の途中に襖を見つけた凛は、そのすぐ側へと近付いていく。
凛「あれ? ここだけ開かんの?」
襖にかけた手に力をこめながら、凛が不思議そうに尋ねた。
すると、日本人形が答える。
日本人形「ここがさっき言った危険な部屋よ。床の穴もここに居るやつが暴れたからできたの」
凛「そんなすごいやつなん?」
自然と、凛の表情が引き締まる。
日本人形「あっ、ここから離れたほうが良いかも……」
その時、日本人形があたかも、何かに気付いたかのように、凛を促した。
瞬間だった。
ドン、ドドドン!
出し抜けに大きな音がしたかと思うと、襖が穴だらけになっていた。
凛「おさまった……?」
どうやらそのようだ。
日本人形「気をつけてね。凛ちゃんには怪我とかしてほしくないから」
日本人形のその言葉を、しっかりと心に留めておく凛だった。

襖に空いた穴から、相手の姿等の情報をほんの少しでも、得られないものかと考えた凛は、思いきって襖を覗いてみることにした。
すると、そこから真っ赤な双眸が覗いたかと思うと…。
凛「わっ!!!」
なんと廊下の壁を壊し、そこから大きな人形が出てきたのだ!
日本人形「まずいわね……。逃げ道塞がれちゃったわ」
そう。
人形が出現したのは、ちょうど凛達がやって来た方向で、その逆側にはただ大穴が広がっているだけだった。
人形が近付いてくる!
凛「えいっ」
凛はとりあえず、館内で見つけた鞠を放ってみた。
すると、床に落ちた鞠を踏んだ人形がそのまま転び、首が取れてしまった。
凛「あら……。やっつけたん?」
凛は動かなくなった人形を見て、ひとまずそう判断した。
日本人形「すごいわ。凛ちゃん」
日本人形も感心したように、言った。
凛「運が良かったんよ。危ないところやったわー」
日本人形「運も実力のうちって言うし凛ちゃんは、あたしが思っていた以上にすごい子だわ」
安堵した様子の凛を見て、日本人形が呟く。
日本人形「人塊様も凛ちゃんを気に入るはず。もしかしたら人塊様に……」
凛「人塊様って誰なん?」
凛が好奇心に任せ、尋ねる。
日本人形「この館で一番偉くて特別な存在の人形よ」
凛「そうなんかー。帰る前にご挨拶したいな」
日本人形「この廊下の先だったんだけど床に穴があいてるからもう行けないのよ」
凛「残念やねー」
日本人形「他に向こう側に渡る方法があればいいんだけどね」
凛「この部屋に向こうに行くための道具とか無いん?」
日本人形「この部屋何があるかあたしも知らないのよ」
そんなやり取りを交わした後、『考えていても埒が明かない』と判断した凛達は、先程の人形により空けられた壁の穴から、中へと入ってみることにした。

部屋の中はいやに薄暗かった。
一通り調べ終えたところで、日本人形が言う。
日本人形「凛ちゃん。ここ……何もないわ。全部壊されてる」
凛「そっかー」
ほんの少し、残念そうな表情を浮かべる凛だった。
ちょうどその時である。
コツコツ。
部屋の中で、何か物音がした。
日本人形「今の音は何? 気をつけて」
日本人形が注意するように、呼びかける。
そこで、薄闇の中を注意深く見渡してみると、なんと驚くべきことに、つい先程倒したはずのあの大きな人形が、胴体だけの姿でいつの間にか、部屋を徘徊していたのだ!
その様子を見て、慌てて部屋から脱出する凛達だった。

廊下まで戻ってきた凛達が目にしたのは、先程より大きくなっている件の人形の首だった。
凛「大きくなっとるよ」
凛が驚きに目を見張る。
日本人形「さっき胴体が襲ってきたし首が取れたぐらいだとこいつは倒せないみたい」
凛「どうすればいいんかな?」
凛がそう聞くと、日本人形はこんな提案をしてきた。
日本人形「穴に落としちゃおう。下に落ちて粉々になればおそらく……」
凛「えいっ」
日本人形の意見を聞いた凛は、間を置くことすらなく、そのまま人形の首を押し転がした。
ゴロゴロゴロ。
ガゴン!
日本人形「大きすぎて失敗しちゃったみたいね。……でも道として使えるかも」
大して残念そうでもなく、どころかちゃっかり、人形の首を有効利用しようと考えるあたり、日本人形の抜け目のなさが窺えるようだった。
凛「歩いても大丈夫なんかなー。なんか襲ってきそうで怖いね」
そうは言うものの、その言葉程には恐怖を感じてはいなさそうな凛なのだった。

そうして人形の首を橋にし、凛達はその先の部屋へと渡る。
すると、その場所には。
凛「うわぁ。大きな人形」
巨大な人形がいて、その姿を見た凛は当然のことながら、驚きを隠せないでいた。
日本人形「人塊様よ。ここに住む人形を生み出した神様のような存在」
日本人形が巨大な人形、人塊様について説明してくれる。
凛「さっき襲ってきた人形も大きかったけどあれは何なん?」
その質問をした瞬間、日本人形の纏う雰囲気がどこか、変わったように凛には感じられた。
日本人形「あれは新しい人塊様になる予定だった失敗作」
しかし、どうやら気のせいだったらしく、日本人形はいつもの調子で言葉を継いだ。
日本人形「人塊様には時間が残されてないから新しい人塊様が必要なのよ」
凛「新しい人塊様って?」
日本人形「あたしは凛ちゃんがいいな」
凛「えっ!?」
凛は驚いた。
言葉の内容そのものよりむしろ、あまりにも自然な調子で、そんなことを言う日本人形に、だ。
日本人形「夜市で見たときからずっと決めていたの。この子ならいけるって」
もう間違いなかった。
今度こそ、凛ははっきりと確信する。
気のせいなどではなかったのだ。
何しろ、あからさまに雰囲気が切り替わっているのだから。
日本人形「ここの人形達にも気に入られたし」
そう。
最初から、この人形はずっと狙っていたのだ。
日本人形「厄介者のあいつを退治してくれた凛ちゃんを皆、認めてくれるよ」
他ならぬ凛のことを…。
凛「人塊様ってうちが人形になるん? そんなの嫌やし」
目元に涙を浮かべながら、凛は拒絶の意思を示した。
日本人形「そんな事言わないで。人塊様が怒ってるわ」
日本人形がそう言うと同時に、人塊様の顔が醜く歪む。
まるで、日本人形の気持ちと連動しているかのように…。
日本人形「凛ちゃんもいずれ大人になるでしょ」
日本人形は寂しそうに言った。
日本人形「そうしたらあたしを捨てる……。大人は遊んでくれない、大嫌い」
凛「うちは捨てへんよ」
日本人形「あたし……。何度も捨てられたからその言葉は信じられないの」
伝わらない。
言葉だけでは、この人形に気持ちを届けることはできない。
それ程までに、人間に裏切られる経験を重ねてきたのだろうから。
日本人形「人形になればずっと子供のままずっと遊べるよ」
凛「うちは人形にはならんよ!!」
しかし、尚も拒否する凛だった。
日本人形「凛ちゃん謝って。人塊様が怒ってるから」
日本人形の言葉と共に、人塊様の顔がますます歪む。
まるで人塊様の怒りを、日本人形が代弁しているかのようだった。
凛「嫌やし。ここから出て行く」
そう言い捨てると、凛は人塊様の部屋から飛び出していった。
日本人形「どうしてわかってくれないの。凛ちゃん……」
人形の呟きは凛に届くことなく、そのまま虚空へと消えていく…。

部屋を出た凛は、急ぎ館から逃げ出すことにする。
凛「早くここから出よう」
長い廊下をつっきり、まっすぐ出入り口へと向かう。
そうして、もうすぐ目的の場所まで辿り着こうという時に…。
ブオッ、ドゴォン!
凛「うわぁあああああああ」
突然、上から首だけの人形が降ってきた。
そのままこちらへと向かってくる!
慌てて凛は、きた道を引き返す。
途中で、何度も追いつかれそうになりながらも、館の中にあるものを利用し、隠れながらやり過ごすことで、かろうじて人形を撒くことに成功する。
凛「はー…はー…。こんな場所もう嫌や……。早く帰ろう」

そうして、人塊館から出ていこうとする凛の背中に…。
日本人形「凛ちゃん待って」
声が投げられた。
振り向くとそこには、あの日本人形が立っていた。
日本人形「ここの人形達。あの巨大人形に壊されちゃう」
悲痛な声で、日本人形が言う。
日本人形「人形達だけじゃない。人塊様もこの館も……全部」
日本人形はまるで縋るように、言葉を続ける。
日本人形「凛ちゃんが新しい人塊様になってくれればここを救えるの」
その要望に対する凛の返答は。
凛「お人形さん達には悪いけどうち、何度言われても人塊様にはならんよ」
やはり拒絶だった。
目元に浮かべる涙は、断ることを選んだ為の罪悪感なのか、それとも救えるはずの相手を救えない悔しさか、或いは終わろうとしているもの達への同情か?
その答えは恐らく、凛自身にもわかりはしないだろう。
日本人形「どうしてわかってくれないの? 友達なのに!!」
激情を露にする日本人形に。
凛「本当の友達は相手が嫌がってたらやめるんよ」
凛はまるで諭すように、静かにそう言った。
凛「わかってくれへんのはお人形さんの方」
悲しそうに、続きの言葉を口にする凛に。
日本人形「………」
日本人形は少しの間、黙り込んだ後。
日本人形「嫌われてもいい。ここに残って……お願い」
か細い声で、そう懇願した。
しかし、凛は何も言わずに背中を向けると、それ以上は振り返ることもなく、その場から去っていってしまった。
日本人形「……凛ちゃん。少し嫌われても良いからずっと友達でいたかったよ」
もはや実現することのない自身の希望を、既にその姿が見えなくなってしまった、恐らくはもう会うことさえもないだろう、彼女への言葉として呟く、日本人形だった。
伝わらない。
届かない。
結果、互いにすれ違う。
人間と人形の、ほんの片時だけの友達ごっこは、こうして儚く終わりを迎えるのだった…。

紆余曲折の果てに、ようやく自分の部屋まで帰ってくることができた凛だったが。
凛「もう……いろいろあり過ぎて疲れたわ」
その顔には当然ながら、疲労の色がとても濃く滲んでいた。
凛「おかーちゃんに言われた通り早よう寝ておけばよかった。今日はもう寝よう……」
まさしく、後悔先に立たず、だ。
そのまま凛が、布団に向かおうとした時だった。
千代「こらっ。まだ寝てへんの? どしたの? 何かあったん?」
部屋へと入ってきた千代が、心配そうにそう尋ねる。
凛「おかーちゃん。お人形さんがなー。うちの事を人形にしようとしたんよ」
凛は涙目になりながら、母へと訴えた。
凛「夢とかじゃなくて本当なんよ。お人形さん動いとったし」
千代「お人形って今日おとーちゃんが買うてくれたやつ?」
凛「うん」
訝しげに尋ねる母に、凛ははっきりと頷いた。
千代「それはからくり人形さかいに。人形が勝手に動くなんてありえへんし」
しかし、やはり信じては貰えなかった。
凛「あれってからくり人形だったん? うーん……」
心底、不思議そうに首を捻る凛だった。
千代「今日は凛ちゃんが寝るまでここで見てるさかいね」
凛「おかーちゃんありがとなー」
事情はわかっては貰えなかったものの、自分を案じてくれている母の、その気遣いに凛は感謝するのだった。
凛「あっ。なんか光っとる」
と、そこで凛は何かに気がついた。
すぐ側まで近付き、光の正体を知る。
凛「綺麗やなー」
光を発していたのはなんと、鉄男から借りていた花札だった。
そのまま凛は、花札に吸い込まれてしまう!
千代「凛ちゃん!! 何処に行ったん?」
忽然と消えた娘を探し、千代が部屋を見回すも、凛の姿はもはやどこにもなかった。
千代「おとーちゃん。大変!! おとーちゃん」
大慌てで鉄男を呼びに、部屋から飛び出していく千代だった。
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